ティックーン・デボーション No.13
- tikkunjppartner
- 2021年5月17日
- 読了時間: 7分
5月10日

イスラエル南部のベイト・グヴリン遺跡 ネティブヤのハナ・コヴナーさん提供
創世記27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。
27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。27:29 国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。27:31 彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」27:32 すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」
・今日は、「神の祝福」ということについて見てみましょう。聖書に言う「祝福」(ヘブル語でbaruch)とは、神に対して用いるときは、「言祝ぐ」や「あがめる」「ほめたたえる」という意味であり、ユダヤ人の典型的な祈りも「ほむべきかな、我らの主なる神、全地の王・・・」(Baruch ata Adonai Eloheinu Melech ha Olam・・・)という決まり文句で始まります。これは「祝詞」に近い意味であり、「良き言葉を神に捧げる」ことが、その意味の中心です。神は賛美されるにふさわしい、誉め讃えられるべきお方ですから、神を「祝福する」ことは、神の力、神の栄光を解放し、神を祝福する者に神の臨在をもたらす源泉です。讃美こそ礼拝の本質であり、まことの礼拝は神の臨在をもたらすということです。
これが人に対して用いられる場合にも本質的には同じであり、他者に対して良き言葉を語る、あるいは他者に好意を与える、ということです。もちろんこのこと自体にも大きな力がありますが(他者を祝福する者は、必ず良き実を刈り取ります)、特に神に祝福された者の唱える祝福の言葉には特別な力があります。神に祝福された者とはどういう人のことかというと、それは、神が地上でもしくは人の間で働かれるとき、特に神が選ばれる神の器のことを言います。「神の選びの器」ということですね。誰を選ぶかということは神の主権に属するのであって、その基準は私たちには完全には分かりません。それこそ、「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。」(ローマ9:11,12)とある通りです。しかし、神の選びの器には、確かな証しがあります。それは、どんなに環境が悪くても、逆風が吹いても、たとえ一時的には失敗するように見えても、必ず最後はその人によって神の御心が実現されるということです。神の御心は必ず成し遂げられるのであって、誰もこれを押しとどめることはできませんし、神の選びの器を通してなされる場合であっても同様です。
また、これに伴って、神の選びの器にも、良いことが起こってきます。「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。・・・」(申命記28:2-3)。しかし、この豊かさが与えられることは祝福の本質ではありません。ヤコブの子供であったヨセフや、苦難の人ヨブの例を出すまでもなく、確かに彼らは、最後には神によって圧倒的な豊かさを与えられましたが、より本質的なのは、神が彼らに託した目的があらゆる逆境にも拘わらずついに達成された、ということです。ヨセフに託された神の目的は、イスラエルを飢饉から救い出すということであり、ヨブの場合は、あらゆる不条理にもかかわらず、神に忠実であり続けようとする人間の真実をサタンに対して証しする、ということでした。ちなみに、神の預言者ではありませんでしたが、バラムは神のご意志に反してイスラエルの陣営を呪うことができず、半ば強いられるような形でイスラエルを祝福し、神の御心を実現させられました(民数記24章)。
・創世記12章2-3節を見ると、アブラムは選びの器として神に祝福されました。そして、アブラムを、全地において、神がある人(人々)を祝福するかどうかの基準とされました。まさに彼は、神の「祝福」(ヘブル語でberacha)また「祝福の基」となったのです。これを定式化すると、神はアブラムを祝福するものを祝福し、アブラムを呪うものを呪う、ということになります。つまりアブラムに良き言葉を語る者、また好意を与える者が、神様の好意を得るということです。このように神はある者を祝福するかどうかの決定を、あえてアブラムを基準とする一定の法則に「委ねられた」のです。その意味で、神に選ばれた器は、地上における神の代理人としてある者を祝福に定めたり、ある者を呪いに定めたりするのです。
以上のことは、あくまで「受動的」な原理ですが、さらに神の選びの器が「祝福する者」として、能動的に行動するときもまた同じです。神はその祝福の言葉を、いわば「神の言葉」として追認されます。地上における神の代理人として、神の選びの器の語る祝福が、そのまま神の祝福となるのです。これは、本来、神の祭司が果たすべき役割でした。そして、発せられた祝福の言葉は、語った者の私的な願いや希望を表すものではなく、むしろそれを超えた「公的な言葉」となります。つまり、発せられた瞬間に、神の裁定的な言葉となり、語られた対象となる人の運命を決定的に作り変えていくものとなるのです。神はこれほど重大な事柄を、選びの器に委ねられたのですから、何と恐れ多いことでしょう。
上に掲げた創世記27章の場面は、イサクがもう召されようというときに語られた祝福のことばです。これは単なるイサクの願望を表したようなものではなく、むしろ相続の言葉-遺言を与えようとするものであり、最終的に長子としてアブラハム-イサクの聖なるミッションを受け継ぐための聖なる儀式だったのです。神の祝福の代理人としての使命を担うアブラハム家系の長子として、その相続は財産や目に見える物によってではなく、その祝福の言葉によることを本質とするものでした。イサクはてっきりエサウのために遺言の儀式を行っているつもりでしたが、全能の神の予知によってそれはヤコブを対象とするものでした。直後にそのことに気づくのですが、祝福の言葉が発せられた瞬間にそれは既に公的/聖なるものとなっており、イサク個人の願望や好き嫌いとは全く別のものとなっていました。それは人間個人の意欲を超えて、全く別の次元で、深い神の御心を表すものとなっていったのです。
・しばしば誤解されがちですが、このような祝福の言葉を述べるべき神の選びの器は、使徒や牧師といった特定の職務を担う者だけではありません。むしろ大祭司キリストのものとなったクリスチャンのすべてが、今やアブラハムの霊的子孫として、神の事柄に関する聖なる祭司です。クリスチャンは、神に祝福されたもの(blessed)として、神の祝福(blessing)となるアイデンティティを与えられ、関わる多くの人々を祝福するものとなり(blesser)、こうしてこの世の運命を作り変えていくという使命を与えられています。それは特権である以上に、重い、厳粛な使命です。
しかし、使徒や牧師といった職務に与る者は、その職務のゆえに、より重い、重大な責任を負っていることを自覚すべきでしょう。「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。」(マタイ10:41)とあるように、聖徒たちに仕えるという特別な職務を得ている者には、その委ねられた職務に伴う範囲で、地上における神の代理人たる地位が与えられていると言えます。聖徒たちを励まし、慰め、建て上げる過程において、その発する祝福の言葉には特別な力が与えられているのです(聖徒たちの益のために)。ですから、彼らが言葉を発するときには、それが聖徒たちに与える大きな影響をよくよく注意しなければなりません。もちろん、使徒や牧師も弱さを帯びた人間であることには変わりありません。ですから、常に大祭司であるイエス・キリストの御前に出て、時に適った助けを得るために、祈り励もうではありませんか。また、聖徒たちによるとりなしの祈りは絶大な力を持っているのですから(機会があればこのテーマも後日分かち合いたいと思います)、ぜひご自分の牧師たちのために神の助けと力を祈っていただきたいと思います。
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