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ティクーン・ディボーション No.28

2021年8月31日


出エジプト34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」


ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」 1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。


1 使徒ヨハネは、イエス様を、「恵みとまこと」に満ちておられるお方、と記していますが、この「恵みとまこと」という言葉は、聖書中、特別な意味を持っています。

 ギリシャ語で言うと、カリス・カイ・アレーテイア、となりますが、これにはちゃんとヘブル語の下敷きがあります。それが、ヘセッド・ベ・エメット、です。


 ヘブル語でヘセッドというのは「恵み」(grace, loving kindness)を意味しており、エメットは「真実」(truth)と訳すことができます(ちなみにアーメン[真実に、確かに]というヘブル語は、エメットと同じ語根から出ています)。ギリシャ語では、神様の本質は「愛」(アガペー)であると説明され、その意味は「一方的な、無償の、無条件の」愛だとされていますが、このアガぺーに対応するヘブル語としては、アハバー(愛)という言葉のほかに、ヘセッドという語を挙げることができます。たとえば、エレミヤ31:3は、「永遠の愛(アハバー)をもって私はあなたを愛した(アハバー)。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛(ヘセッド)を尽くし続けた)。」(新改訳2017)とありますが、両者は互換的に用いられており、さらにいうならヘセッドは愛の本質を表す言葉としてより強い意味で用いられています(真実の愛、と訳した新改訳聖書はさすがだと思います)。


2 ヘセッドとエメットという言葉は、引用した聖句が示すように、対になって一つの言葉として使われることもありますが、あえてそれぞれの意味を良く表す喩えとして、「100円を払ってアイスクリームを買う」という契約を考えてみましょう。この場合、私が100円の代価を支払う義務を相手方に対して負う代わりに、相手方は必ずアイスクリームを私に引き渡さなければなりません。もっとも相手方が過失なくしてアイスクリームを引き渡すことができない事情が生じた場合には例外的にその引渡義務を免れます(たとえば、突然雷が落ちてきて、注文のアイスクリームを作るための特注の製氷機が燃えてしまうといった場合、不可抗力免責となります)。これが契約のルールです。しかし、神様は必ずご自分の約束に忠実であり、何が何でも契約通りのアイスクリームを私に引き渡してくださいます。それは神様には不可抗力ということがないからなのですが、このような場合に、神は真実(エメット)であるということができます。あるいは私の方で100円を支払うと言いながら、惜しくなり、支払いを渋ったとしたらどうでしょう。相手方は私の債務不履行を理由に、催告した後に契約を解除することができます。その場合、相手方はアイスクリームの引渡義務を免れます。これも契約のルールです。しかし、このような場合でも、神様は契約を解除するということをなさらず、私たちにアイスクリームをくださいます(そして、あくまで私たちが100円を支払われるまで待とうとされます)。神様のエメットは、ご自分がかつてなされたアブラハムとその子孫を名宛人とする契約に対して、かたくななまでに真実また忠実であられようとするのです。


3 さて、同じ例で、無事、私が100円を支払って、アイスクリームを手に入れたとしましょう。しかし、わたしが食べようとした途端、アイスクリームが手からこぼれて、道路に落ちてしまいました。この時、もちろん相手方が無償でお代わりを私に与える義務というのはありません。というのは、既に相手方は契約上の義務を果たしてしまっており、当該目的物の滅失の危険は今や私の側に移ってしまっているのです。私が泣こうがわめこうが、それに何も対応しなくても、相手方としては契約的信義が問われることはありません。しかし、神様は、私があらたに支払うべき100円をもう持っていないことを知って、「おまけで」同じアイスクリームをもう一本くださる方なのです。それが、ヘセッドです。つまり、何の義務がなくても、契約の外側にあることがらであっても、あえて私たちの願い、求めにこたえてくださるということです。それゆえ、それは英語でgraceやmercy、loving-kindnessと訳されます。福音書の中で、主イエスが「かわいそうに思って」という言葉がしばしば出てきますが、それも丁度神様のこのようなご性質を表しています。しかも、聖書では、「主の憐れみ(ヘセッド)は尽きることがない(His mercy never comes to an end.)」(哀歌3:22) と記されています。私たちがアイスクリームを食べることができるようになるまで、主は何度でもご自身のヘセッドを注いで下さるのです。


3 この「恵みとまこと」という言葉が使われている出エジプト34:6は、ご自分がどういう者であるのかを主ご自身が語っておられる非常に重要なテキストです。


この御言葉は、イスラエルが契約の誓いを破り、金の仔牛礼拝に堕落したことで、怒ったモーセが契約の石板(十戒)を破壊し(出エジプト32:19)、裁きがイスラエルに及んだ後に、もう一度御前でイスラエルのためのとりなしを懇願している状況で語られたものです。そこで神様は、「恵みとまこと」のゆえにイスラエルを赦し、むしろ変わらない恵みが千代に及ぶことをイスラエルに約束されました。そして、モーセは、古い契約に代わって、新しい十戒の石板を新たにいただきます(出エジプト34:28)。これは、やがて与えられようとしている「新しい契約」を予表しています。


 また、新約聖書において、「恵みとまこと」はイエス・キリストにおいて実現したと記されています(ヨハネ1:17)。律法はモーセによって与えられましたが、これが始めの恵みであり、イスラエルに対するとこしえの契約を確かなものとしました。しかし、神は「恵みの上にさらに恵みを」(ヨハネ1:16)イエス様によって与えられた、とある通り、イスラエルに注がれた恵みは、本来、契約の外側にあり、全くの異邦人であったわたしたちにも拡大されて及びました。まことにイエス様は、ご自身の十字架の御業によって、アブラハムの祝福という「覆い」で、私たちを「覆ってくださった」のです(キペール:贖いの意味)。それゆえ、イエス・キリストが実現してくださった「恵みとまこと」は、とりわけ私たち諸国民のクリスチャンにとって真実なものと言えるわけです。


 私たちは、途方もなく大きな主の「恵みとまこと」に包まれて、この人生を生かしてくださる主に感謝します。どんな困難の中にあっても、岩のように堅固なとりでとなって私たちを守ってくださる主に心から信頼していこうでありませんか。

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