ティクーン・デボーション No.7
- tikkunjppartner
- 2021年3月29日
- 読了時間: 6分
更新日:2021年4月1日
3月29日 コロサイ書(新改訳第三版)

2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、「この世の幼稚な教え」によるものであって、キリストによるものではありません。2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。 2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。・・・2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。 2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。 2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、 2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。 2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、「この世の幼稚な教え」から離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、 2:21 「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。 2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。 2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
・パウロは、ここで、「むなしい、だましごとの哲学」に気を取られないようにと注意しています。それは、その哲学が「この世の幼稚な教え」によるからだと言います。「この世の幼稚な教え」というのはギリシャ語では「ストイキア・トゥ-・コスムー」('stoikeia’of the world) となっていますが、独特な表現であり、現代の私たちからするとやや理解しにくい概念であります。ストイキアという言葉は、「幼稚な教え」のほか、「諸々の霊」(新改訳2017)と訳されたり、英語では'elements'(KJV) とか 'principles' (NIV)と訳されたりもしますが、言葉の原義は「この世界の構成要素」というような意味です。例えば、ギリシャ人が、「この(物理)世界は火と水と土と大気から成っている」というとき、この火や水や土や大気が「ストイキア」になります。そもそもatom(原子)という言葉もギリシャ語から派生した言葉で、「これ以上分割できないもの」-つまり要素や原理という概念-をギリシャ人は持っていたことが分かります。
・ここで大切なのは、ギリシャ人は、これらの要素や原理を、単なる自然科学的なものである以上に、いわば宇宙を構成する力、すなわち霊的な力をもったものとして宗教的な崇拝の対象としていたということです。有名な例では、ピタゴラスの定理(三角形の斜辺の2乗は他の二辺のそれぞれの2乗の和に等しい)で知られるピタゴラスは、万物は数より成っていると考え、完全数を崇拝した宗教教団でした。彼らはこの自然の美しい法則性に魅せられ、それ自体が霊的な創造力を持つものとして「崇めた」のです。そして、パウロはこのようなギリシャ的な世界観・宗教観を、「幼稚な教え」と断じました。「幼稚」という言葉の意味は、それが原初的なものを扱っているということを含みますが、それ以上に「それがいかに美しく、調和と美に満ちているとしても、所詮、被造物の世界にとどまる知識に過ぎず、これを創造した神とキリストによるはるかに高い次元での知恵や知識に比べれば、全く幼稚なことに過ぎない。」というメッセージが込められています。
・パウロは、このストイキア(幼稚な教え)にあるものとして、「食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日」についての「反対者」のメッセージを掲げています。これは、どう見ても、トーラーの祭儀律法や食物清浄規定を指しているものと思われますが、パウロは、ここでトーラーそれ自身を「幼稚」と言っているのではなく、むしろトーラーに基づく彼らの主張や(ドグマ律法規定による)自己義認的な態度を非難しているのです。もっとも、これを主張する反対者たちは、ユダヤ教を代表するような立場の人たちではないようです。なぜなら、彼らは、「自己卑下」をしたり(これはギリシャ語では「意図的に意識レベルを低くする」という意味で、おそらく「瞑想」や「黙想」を意味していると思われます)、「み使い礼拝」をしており、むしろギリシャ的な様々な霊性とユダヤ教を混交させたような異端的なユダヤ主義者であったようにも思われるからです。そしてパウロは、もう一度、彼らの主張は、「この世の幼稚な教え」(20-21節)だとして、それを「この世の(この世だけしか見ようとしない)生き方」と断じています。
・考えてみれば、もし私たちがこの世界の全てを造られた創造者なる神を認めなければ-そしてもし私たちが被造物にすぎないものであり、この創造者なる神の広大無辺な御心と主権的な意図に服従して生きる者であることを認めなければ、私たちの視野は自ずとこの「被造世界」に限定されたものとなり、また否応なく自分を世界の中心に置くことになってしまいます。そしてそこから得られるものは、どんなに頑張っても「この世の幼稚な知恵」に過ぎません。ギリシャ哲学はその一例ですが、私たちがここで立ち止まって考えなければならないのは、もっと一般的に存在する私たちのストイキアに連なる態度-すなわち、自分が世界をコントロールできると錯覚する態度、あるいは世界の究極の根本を理解したと自負する高慢な態度ではないでしょうか。
・世界の創造者にして人格的な生ける神-現実に歴史に介入し、歴史を導き、支配される神-を知らない、あるいは悟らない異邦人の宗教は、もとよりこの世の幼稚な教えに属するものです。しかし、パウロによれば、たとえそのような神、すなわちイスラエルの唯一の神を知っていたとしても、その「知り方」が、ストイキアに連なる霊性-あたかもその知識を知ることで世界を完全にコントロールできるとする態度-によって導かれるならば、それは異邦人の宗教と何ら変わることのないものだということです。これをパウロは、「肉」と呼びました。この肉によってしか捉えらず、結局、自分を誇ることにしか結果しないのであれば、トーラーも、預言者も、聖書も、また「この世の幼稚な教え」しか生み出さないということになってしまうのです。もちろん、聖書は真理の啓典です。しかし、だからこそ、肉―ストイキアの霊性―によってアプローチすべきではないのであり、むしろそれは危険なことでさえあるのです。
私たちはどうでしょうか?クリスチャンとしてすべてを悟った気になっていませんか?真理を持っていると言いながら、その真理によって自己を正当化することに忙しく、知らないうちに他者を傷つけていませんか?神は私たちの予想とコントロールをはるかに超える仕方でご自分の御心を行うことができないのですか・・・
「神様、私に、真の謙遜と、あなたに仕えることとを教えてくださいますように。アーメン。」
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