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ティクーン・デボーション No.6

  • tikkunjppartner
  • 2021年3月22日
  • 読了時間: 5分

更新日:2021年4月1日

3月21日 ピリピ1:12-20





さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。


①今日は、ピリピ書の1章を取り上げてみたいと思います。良く知られている通り、パウロはこの手紙を獄中から出しています。これがいつの頃のことなのか、年代については争いがあるようですが、多くの方は、これは紀元61-62年頃のことであると考えています。すなわち、パウロは、第三次宣教旅行後エルサレムで捉えられ、ローマ皇帝に上訴したことによってローマに移送されますが、そこで比較的自由な軟禁状態に置かれている間に一連の獄中書簡を書いたのであろうというのです(使徒28章30節)。私もその見方は正しいのではないかと思います。というのは、ピリピ1章13節では、投獄中のパウロのことがローマの親衛隊の中に浸透している様子がうかがえますし、ピリピ4章22節では「カイザルの家に属する」聖徒たちによる挨拶の言葉が伝えられています。「親衛隊」を表すギリシャ語はラテン語のプラエトリアニ(近衛軍団)を示していますが、これは帝政ローマ下で唯一ローマでの駐屯の許された軍団でした。また、「カイザルの家」という表現は、文字通り、皇帝(この時はネロ)の近親者、宮中の役人、奴隷たちまでを含む言葉であります。これらのことからピリピ書がローマにおいて書かれたことはほぼ間違いないと思われます。


②ここで問題となるのは、なぜパウロが投獄されたのか、ということです。それは、パウロの「新しい一人の人」のメッセージがユダヤ人主流派の激しい憎悪をかき立てたからでした。「異邦人であってもナザレのイエスを信じることによって、ユダヤ人になることなく(割礼という改宗手続きを経ずに、自分の民族的アイデンティティを保持したまま)、アブラハムの(霊的)子孫すなわち神の民になれる」というパウロのメッセージは、当時の誇り高きユダヤ人から見れば、「ユダヤ民族であってこそアブラハムの子孫、神の民である」という自負を根底から覆すものであり、自らのアブラハムの子孫としてのアイデンティティを支えるドグマ律法規定(割礼、安息日、例祭、食物清浄規定)をまっこうから否定するもののように思えたのです。パウロの主張は、彼らから見れば、ユダヤ民族の魂をローマ人ほか異邦の民に売り渡すもの-まさにエサウのような売国奴-のように見えたことでしょう。それゆえパウロは「この奥義(新しい一人の人)のために、私は牢につながれています。」(コロサイ4:3)と説明しています。


③この点、イエスを信じるユダヤ人共同体の中にも、ユダヤ民族という枠組み(及びこれを規定するドグマ律法規定)を絶対視するユダヤ人主流派の見解に共感を示し、パウロの語る福音を受け入れられないと感じる人々(割礼派)が一部にいたことを聖書は記しています(使徒15章1-2節)。そして、この問題こそが、エルサレム会議が開かれるに至った主要な理由でした。結局、聖霊とキリストの信仰共同体は、「新しい一人の人」に関する奥義的啓示が正しいことを確認するに至ったのでしたが、この後も、依然として割礼派の活動が続いていたことは聖書の各所からうかがい知ることができます。実際、「新しい一人の人」のメッセージを本気で生きることが生粋のユダヤ人キリスト信者にとっていかに難しいことであったかは(言うは易し、行うは難し)、ペテロやバルナバでさえバックスライドがあったことが物語っています(ガラテヤ2:11―14)。


④こういう訳で、パウロが捕えられていることをいいことに、党派心からパウロを一層苦しめる意図でイエスを宣べ伝えている人々、というのが、実はこの割礼派と呼ばれたユダヤ人信者のグループを指すということが分かります。確かに、パウロは、彼らの主張に対しては、福音の奥義に反するものとして、きちんと論破しています(ピリピ3章)。そして、「私に倣う者となってください。」(ピリピ3:17)との勧告も忘れていません。しかし、にもかかわらず、パウロは彼らと「肉の戦い」-怒ったり、イライラしたり、神学論争を通してねじ伏せようとしたり、ことさらに敵の工作に反撃しようとしたり-はしませんでした。かえって、「あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。」(ピリピ1:18)と言っています。これは、パウロが異端や偽物のメッセージに対して寛容であったということを示すものではありません。むしろ彼は、完全な勝利へと向かう聖なる神の意志に全幅の信頼を置いていたのです。人間の全ての思惑をはるかに超えて全てのことを益となし、ご自分の御心を必ず成し遂げられる神の主権に対する揺らぎなきパウロの信仰をそこに見ることができます。自分自身は投獄されて、自由の制約されている身にありながらも、この事実そのものが人の妬みと党派心というそれ自体は肉のわざである敵対者の行動を促し、それによって最終的には神の完全な御心が前進するという結果に貢献することができる-これこそがパウロの「喜び」であり、「生きるにしても、死ぬにしても、キリストの栄光を表したい」という彼の切なる願いに適うことではなかったでしょうか。


今日はこの辺で失礼します。主にある良き一週間を!

 
 
 

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