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ティクーン・デボーション No.24

  • tikkunjppartner
  • 2021年8月2日
  • 読了時間: 5分

2021年7月27日


Ⅱコリ9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。 9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。 9:12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。 9:13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。 9:14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。 9:15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。


1 パウロとバルナバがアンテオケ教会から異文化・異邦人伝道に遣わされたのは、聖霊が彼らを聖別して派遣されたからでした(使徒行伝13章1節~3節)が、彼らはその前から備えられてもいたのです。使徒行伝11章27節から30節で説明されているように、アンテオケ教会の教師でもあったバルナバとパウロは、別途、飢饉のために困窮するユダヤ(エルサレム)の兄弟たちに支援物資を送るため、教会からの委託を受けていました。

このミッションを先導したのがアンテオケ教会であった理由は、彼らがユダヤ人と異邦人から成る初の国際的な教会であったからです。彼らには、異邦人の弟子たちがユダヤ人の弟子たちと何ら変わることのない兄弟であることを、とりわけエルサレムの弟子たちにわかってほしいという願いがありました。


エルサレムの兄弟たちの大多数は、知識としては、今や聖霊が異邦人を聖めてキリストの弟子とされたことを受け入れていましたが、如何せん身近に異邦人の兄弟たちがおらず、また彼らの生活は基本的にトーラーに従ったものでしたので、実際に異邦の文化においてキリストに従うということについての具体的なイメージがつかめませんでした。そして、彼らが、異邦人信者に対して、よく知らないことからくる種々のネガティブなイメージを抱いたとしても不思議ではありませんでした。つまり、エルサレム教会では、国際的なエクレシアであるアンテオケ教会とはかなり事情が異なっており、ややもすると異邦人の弟子たちの立場が事実上低くみなされることもあり得たのです。それゆえアンテオケ教会の聖徒たちは、自分たちの-とりわけ異邦人の弟子たちの-地位をエルサレム教会の長老たちに正当に認めてもらいたいと思っていたのであり、それ以上に、どれだけ深く彼らがユダヤ人の兄弟たちを愛しており、また深く感謝しているかを何とか知ってもらいたいと願っていました。こういう状況を背景に、エルサレム教会が世界的な飢饉によって窮乏しているということを聞き及んで、ぜひこの機会を、ユダヤ人の兄弟たちに対する愛と感謝を表すために用いたい、と彼らは願ったのです。


2 それは継続的な一大プロジェクトでした。そして、そのプロジェクトは、大きな額の金銭を扱うものとして教会が絶対的な信認を置く者に委ねられる必要がありました。さらにそれは異邦人とユダヤ人の双方の文化を良く知る者によって遂行されなければ所期の意図を達成できない恐れがありました。まさにそのような任にふさわしい者として、バルナバとパウロが選ばれたのです。


 そのプロジェクトが実際に動き出したことを背景として、正式にバルナバとパウロが異文化宣教に遣わされたのです。あるいは、彼らの異邦人伝道のトラックは、常にこのエルサレム救援ミッションと同時並行的に走っていたともいえると思います。その証拠に、パウロが第三次宣教旅行からエルサレムに帰ってきた動機が、このエルサレム救援ミッションのためであったことが使徒行伝24章17節またローマ15章25-29節に記録されています。


 このエルサレム救援ミッションはアンテオケ教会から始まったのですが、やがてパウロが伝道して次々に教会(エクレシア)を建て上げていった異邦諸地域に広がっていきました。まずマケドニア地方にある教会から火が付き、それがコリント教会にまで及んでいきました。ローマ15:26には「マケドニアとアカイア(コリントやアテネがある)の人々」にこの思いが与えられていること、Ⅱコリント8:1ではマケドニアの人々の熱心をもってコリントの教会を鼓舞していること、さらにⅡコリント9:1~3ではアカイアの人々の熱心をもってマケドニアの人々を奮い立たせようとしたことなどが記されています。


3 ここからⅡコリント9章において有名な献金の奨励の御言葉が続くのですが、それは献金する者に豊かな恵みを注ぐだけではなく(Ⅱコリント9:8-10)、受ける者-つまりユダヤ人の兄弟たち-に神への感謝をもたらすのだ(Ⅱコリント9:11-12)、とパウロは言います。さらに、それが梃子になって、このような捧げものをしてくれた異邦人の兄弟たちに対する彼らの見方が大きく変わるというのです。


貧しい者には惜しまず与える、ということは、詩篇112篇9節にあるように、ユダヤ人にとって非常に重要な戒めであり(ツェダカー:義の行為)、神に忠実に歩んでいることの証しでもありました。彼らエルサレムの弟子たちは、具体的にこのエルサレム救援ミッションを通して、異邦人の弟子たちがこの戒めを重んじているのを見ました。そして、確かに異邦人の弟子たちの信仰が本物であり、自分たちと何ら変わらずキリストに従っていることを理解したのです。こうして、彼らは、異邦人の弟子たちを今まで以上に愛するようになったことでしょう。


 パウロは、このように、このエルサレム救援ミッションが単なる人道支援ではなく、むしろユダヤ人と異邦人の弟子たち双方に愛と感謝と理解を生み出すブリッジであるということを十分理解していた故に、これを非常に大切に考えていました。別の言い方をすれば、このエルサレム救援ミッションは、初代教会において「新しい一人の人」を受肉させる奉仕でもあったのです。


 私たちもエルサレムの兄弟たちを常に思い、とりなしの祈りと捧げものをもって、「新しい一人の人」の完成へと仕えていきたいものです。

 
 
 

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