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ティクーン・デボーション No. 23

  • tikkunjppartner
  • 2021年7月20日
  • 読了時間: 4分

2021年7月19日


ローマ15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。15:15 ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。15:16 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。15:17 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。


1 パウロによる異邦人の使徒としての情熱や、自分の命さえも惜しまないほどの使命感を

突き動かしていたのは、いったい何だったのでしょうか。彼が「異邦人が好きだったから」とか、「異邦人をかわいそうに思ったから」だという感情論は成り立たない話です。パウロは生涯にわたって「最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活し」たのであり(使徒26:5)、さらには時のサンヘドリンの議長であったラバン・ガマリエル門下のかつての秀才としてトーラーに生きる道を極めた人です。人間的な感情や肉の思いで異邦人に一方ならぬ好意を寄せるというのは考えられませんでした。むしろ、肉によれば、異邦人など眼中にない、ただイスラエル民族の救いだけが大事、というのが、彼の素直な気持ちでしょう(ローマ書9章1~3節はそのようなパウロの自然の情を吐露しているところです)。


2 パウロを突き動かしていた、異邦人へと向かう熱心は、ひとえに聖霊によるものでした。パウロは「新しい一人の人」を完成しようとする神のご計画を理解し、そしてその「新しい一人の人」によって啓かれる啓示(イエス様の再臨をもたらし、終わりの時代を完成させる)のすばらしさを悟らされたとき、イスラエルの信仰の完成と共に神の啓示の両翼を担うも一つの真理である「異邦人の完成」へと自らを召し出された神に、心から従ったのです。


 このパウロの召命理解は、ローマ15章16節にはっきり記されています。「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」パウロは、自らを、宣教者や伝道者である前に、まず神に仕える「祭司」として理解していました。祭司であるからには、捧げものを御前に携えていかなければなりません。その捧げ物こそ、「福音によって聖なるものとされ、神に受け入れらた異邦人」だったのです。イエス様が来られ、十字架の御業を成し遂げられた時、主はその血潮により異邦人を聖められました。偶像礼拝にまみれ、生まれながら御怒りを買うべき存在—約束の契約からは除外され、望みも希望もなかった異邦人—が、律法に基礎を置きながら律法とは別の道(ユダヤ教に改宗することではない道)により、完全に赦され、聖められる道が与えられたのです。それは信仰の道でした。神はイエス・キリストを信じ、イエス・キリストと一つとされた異邦人を完全に聖なるものとみなし、それゆえに聖霊を惜しげもなく注がれたのです。それは何のためであったか?異邦人を、神に喜ばれ、受け入れられる聖い捧げ物として、御前に捧げさせるためでした。ローマ書12章1節にある通りです。


3 しかし、そのような務めにふさわしい者はだれでしょう?人間的な知恵・哲学を誇り、偶像礼拝にまみれ、倫理的に破綻した異邦人のような存在を、心から受け止め、彼らの理解とは隔絶された世界である(徹底的にユダヤ的なものである)聖書信仰を彼らに受容可能な方法で伝え、まるで赤子を育てるように忍耐強く聖霊に従うものとして育てる-そうして初めて神の御前に捧げられる立派な信仰の捧げものとなる-このような想像を絶する困難なわざを行うにふさわしい、知識と知恵と能力と忍耐に優れた器を、主は祭司として必要としておられました。それがタルソのサウロ(ローマ世界での通用名パウロ)だったのです。イエス様は、直接、何度もパウロに現れて、この福音の奥義を教えられました(ガラテヤ1:11-17)。それゆえ、この福音の奥義を実現することにおいて、パウロは聖霊に突き動かされるような情熱と誇りを持つようになりましたし、それこそが生涯をかけて全うすべきライフワークとなったのです。

4 私たちもそれぞれに生まれる前から主に与えられている召命、使命があります。それは人間的な感情や選好とは別の、聖霊様によって啓かれ、示されるものであることがパウロの例からもよく分かります。もっとも、それは、これまで歩んできた人生の歩みと全く無関係なものではないかもしれません。神は、私たちがそれを掴むようにと、色々な―思いもしないような―ヒントをそこに与えておられ、一見、遠回りであったり、無駄にしか見えないような経験の中にも、重要なメッセージを書き記しておられるかもしれないのです。

ですから、ぜひともそれを見出しましょう。生涯かけて、走るべき馳せ場を走りぬきましょう。主は、遂に走りぬいた私たちに勝利の栄冠を戴冠してくださるのです。ハレルヤ!

 
 
 

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