ティクーン・デボーション No.22
- tikkunjppartner
- 2021年7月15日
- 読了時間: 6分
2021年7月12日
マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
1 キリスト時代の宗教的・社会的潮流は、大きく分けて、サドカイ派(神殿祭司や貴族を中心にトーラーの儀礼的要素を重視し、預言者(書)や霊性を重視しない)、パリサイ派(民間のトーラー教師〔ラビ〕に指導された大衆の敬虔運動であり、各地のシナゴーグを拠点としていた)、ヘロデ党(ヘレニズムを受け入れた世俗的な人々であり、政治的にはパックス・ロマーナの利益を進んで享受していた)、熱心党(急進的・世俗的な愛国者・反ローマ主義者で、政治的にはテロリズムをも厭わなかった)などに分かれていました。さらに、一口にパリサイ派といっても、それはさらにラビ・シャンマイによって指導されたシャンマイ派(トーラーへの字義的従順を強調する厳格派)と、ラビ・ヒレルによって指導されたヒレル派(トーラーの本来の趣旨に従うことを重視し、霊的・柔軟なトーラー解釈を特徴としていた)の2つの大きな潮流に分かれていました。ちなみに新約聖書に批判の対象としてしばしば言及されるパリサイ人は、シャンマイ派パリサイ運動であることが少なくないように感じます。反面、イエス様のトーラー解釈は、もちろん「権威ある者として」語られた(マタイ7:29)ということで比類なきものではありましたが、傾向としてはヒレル派のそれに親和的であったことが指摘されています。
2 ところで、紀元30年頃、エルサレムでヒレル派パリサイ運動を指導していたのは、当時人々から最も尊敬された(使徒5:34)律法学者にしてサンヘドリンの議長、ラバン・ガマリエル(ラビ・ヒレルの孫)でした(ラバンとは「我らの師」の意)。そして、ラバン・ガマリエルは、タルソのサウロ(へブル名シャウール)の師として、彼の宗教的人格の形成に決定的な影響を与えた人物でもあります。
ラバン・ガマリエルは、当時の異邦人世界に対しては「平和」を重んじる態度を示しました。そして、隣人である異邦人に対する社会的救済の働きは、ユダヤ人にとってのハラハ―(律法における法的規範)であるとさえ説いたのです。当時、ローマ世界に広く離散したユダヤ人の間では、異邦人世界への社会的・人道的支援を含む宣教的活動が熱心に行われていました。事実、後にクリスチャンによってなされた孤児ややもめ、貧者や病者に対する養育、教育、医療その他の救済活動は、ローマにおいてはユダヤ人による活動の継続であり、既知のものとして認識されていました(当時の文献に「ローマ中の孤児たちがキリスト教会で養われている」と記録されているほどです)。
3 ティクーン・(ハ)オラム~世界を修復するために
ヒレル学派において一義的な律法解釈原理は、律法は「世界を修復する(より良くする)」(Tikkun Ha Olam:Repair〔Correct〕the World)ためにある、という確信でした。この「ティクーン・(ハ)オラム」という概念は、古くは紀元2世紀前後に成立したアレイヌ(Alleinu)という基本的な祈祷文中に見られるもので、それによると「あなた(神)の力強い栄光を速やかに来たらせ、地から偶像礼拝を取り除き、偽りの神々が文字通り断ち切られ、こうして神の王国において世界を癒し(確立し)【tahken】たまえ」とある通り、「偶像や偽りの神々が完全に取り除かれるとき、神は世界を完成される」というような文脈で理解されていました。しかし、その後のユダヤ教の展開の中で、次のような広範なバリエーションにおいて捉えられることになりました。①戒め(ミツボット)を行うこと、すなわち安息日を尊び、正義と公義に適う行為(ツェダカー)を行うことによって、メシアの来臨を早めようとすること、②「聖なる祭司の王国」となる(出エジプト19:5-6)や「諸国民を照らす世の光となる」(イザヤ42:6、49:6)という召命に応えて、ユダヤ人もしくはイスラエル国家が世界の模範となること、③「より良き世界にするためのユダヤ人の社会的・政治的責任」を果たすこと。特に③のような社会政治思想としての「ティクーン・(ハ)オラム」の理解は、1970年代以降、主としてアメリカのユダヤ人社会において発展し、ビル・クリントン元大統領がユダヤ・キリスト教的な意味における「社会的正義」を志向する概念として演説中に語ったことで広く知られるようになりました。
このように、「ティクーン・(ハ)オラム」を創造秩序もしくは社会的正義の回復に対するユダヤ人の責務として捉えるヒレル学派によるトーラー理解は、彼らの外部世界・異邦人世界への開放的な姿勢と相まって、普遍的・世界的な広がりを含意するものとなり、ひいては「世界の祝福の基」(創世記12章3節)となるべきイスラエル民族の使命を常に覚醒させる要素ともなったのです。
4 パウロにおける「ティクーン・(ハ)オラム」
ラバン・ガマリエルの俊英なる弟子であったパウロにおいても、この「ティクーン・(ハ)オラム」の概念は、重要な位置を占めています。ただし、それは、コリント書第一15章24節やエペソ書1章10節において見られるように、終末論的なメシアニズムの色彩を色濃く帯びたものとして、キリスト論的に展開されています。
「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。・・・しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)
「(神は)みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」(エペソ1:9-10)。
このようにパウロにとっての「ティクーン・(ハ)オラム」とは、自ら努力して創り出すものというよりは、究極的にはメシア=イエスによって成し遂げられるもの、すなわち信仰によって期待されるべき祈りでした。その意味で、それは社会・政治的な願望や努力を超越した「神の国」運動でした。しかし、それは同時に政治性を全く持たないがゆえに、より徹底した社会政治運動となり得たともいえます。あらゆる不正義やいかなる不公平も、完全な「神の御国」においては存在する余地はありません。「神が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」(マタイ5:48)という主の戒めに聖霊によって全力で従おうとするクリスチャンの熱心の前では、どのような不義も容認されるものではないのです。
私たち現代日本に生きるキリスト教会も、与えられたビジョンと使命に応じて、「神の国が来ますように」という祈りの中から、自分たちなりのティクーン・ハ・オラムを見出し、実行していくことができますように。マタイ5:16 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
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