ティクーン・デボーション No.20
- tikkunjppartner
- 2021年6月30日
- 読了時間: 6分
2021年6月29日
ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。・・・1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1 ヘレニズム思想は、キリスト受肉論を非常に嫌い、拒絶します。なぜなら、ヘレニズム的二元論によれば、天にあって完全で不滅の神が、地において不完全で移ろい、滅びゆく人間になるためにわざわざ「降る」ということは、およそあり得ないことだからです。まして神が人となって恥辱の極みである十字架の上で無力に死んでいくとなどということは、およそ正気の沙汰ではあり得ません。ですから、キリスト受肉論は、決してヘレニズム世界の人々が福音を受け入れやすいように考案された、使徒ヨハネによる新しいアイデアなどではありません。かえって、キリスト受肉論は、ヨハネのみならず、パウロによっても主張されている新約聖書全体を貫く真理であり、さらに旧約聖書にも通じる実にヘブル的な基盤を持った概念なのです。
キリスト受肉論とは、一言でいえば、人として歩まれたナザレのイエスこそが永遠の神の御子(永遠のメシア)のお姿であり、創造主としての神の満ち満ちた栄光は御子=イエスの内に完全な形で宿っている、ということを表します。イエス=キリスト(メシア)は、普遍的存在者が歴史的存在として現われたお姿であり、完全な人性と完全な神性を混じり合うことなく併せ持っておられます。それゆえ、ヨハネは、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。」(Ⅰヨハネ4:2)と言ったのです。つまり、御子すなわちナザレのイエスの先在性(永遠性)と父なる神と共なる創造者であることこそが受肉論の本質だと言えます。
2 そうだとすると、パウロも次のように、完全にキリスト受肉論を言い表しているということができます。
「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」(Ⅰコリント8章6節)
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」(コロサイ1章15節−18節)
「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル1章2―3節)
言い方はヨハネのそれとは違っていますが、両者に共通に見られるのは、「神の創造の仲介者」としての御子=ナザレのイエス、という概念です。
3 さらに、私たちは、ここにこそ顕著なユダヤ的な思想背景を見出すことができるのです。それは、箴言に顕著に見られる「創造の仲介者」とは「神の知恵」ということです。
・箴言3章19節「主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。」
・箴言8章12節「知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。」
・箴言8章22節「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。」
・箴言8章29-31節「海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」
箴言において、「知恵」は擬人的に描かれており、単なる人間の精神以上のものであることを示唆しています。この点は、ヨハネ福音書1章の「神の言葉(ロゴス)」と同様であり、同書中「神の言葉」を「神の知恵」に置き換えて読んでみると、おどろくほど箴言の記述と一致することが分かります。
また、聖書続編(新共同訳)である「知恵の書」7章26節は「知恵は永遠の光の反映、/神の働きを映す曇りのない鏡、/神の善の姿である。」と記すところ、へブル1章3節「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」という記述が、これに見事に対応しています。
さらに、同じく聖書続編(新共同訳)である「シラ書」24章6-9節によれば、知恵は自らを称賛しつつ、次のように言います。「海の波とすべての地と、/民も諸国もすべて、わたしの支配下にあった。それらすべての中に憩いの場所を探し求めた、/どこにわたしは住もうかと。そのとき万物の創造主はわたしに命じた。わたしを造られた方は/わたしが憩う幕屋を建てて、仰せになった。『ヤコブの中に幕屋を置き/お前はイスラエルで遺産を受けよ。』この世が始まる前にわたしは造られた。わたしは永遠に存続する。」これは、ヨハネ福音書1章14節「ことば(ロゴス)は人となって、私たちの間に住まわれた。」という記述と完全に一致します。
ここから、私たちは、神の御子であるイエス=キリストは、受肉した「神のことば」であると共に、受肉した「神の知恵」であるということを看て取ることができるのです。
4 さらにラビ文献の中には、創世記1章1節と箴言を結び付けて、「知恵」は創造の「はじめ」として得られた(箴言8:22)のだから、「『はじめに』神が天と地を造られた」という創世記1章1節は、「神は、『はじめ』すなわち『知恵』によって、天と地を創造された」と読める、という解釈を示すものがあります。そこでは、知恵はトーラー(律法)と同視され、創造の栄光を語るものである、と解されます。すなわち、「箴言8章29節は『わたし(知恵)は神のかたわらで、これを組み立てる者であった』というのであるが、王であっても宮殿を建てるときは建築士の技量に信頼し、建築士もまた家を建てるために計画やダイヤグラムを用いるのであるから、神もトーラー(知恵)に相談して世界を創造されたのだ」、というのです。
ここにおいて、イエス・キリストは「ことばの受肉」また「知恵の受肉」ばかりではなく、「トーラーの受肉」でもあるというユダヤ的なヨハネ福音書の理解もまた導かれてくるわけです。
私たちは、受肉論において啓示されたイエス=キリストの豊かな啓示を味わいつつ、その人智を超えた創造の神秘に深く思いをいたします。そしていよいよイエス様を愛し、このお方に仕えることのできる幸いをかみしめたいと思います。
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