ティクーン・ディボーション No.2
- tikkunjppartner
- 2021年2月28日
- 読了時間: 5分
更新日:2021年3月22日
2月20日 エペソ2:8-22
①エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分
自身から出たことではなく、神からの賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
②11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。
すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
③14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
④19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

・①について
ここでは、私たちは「良い行い」によって救いを獲得したのではなく、神がまず私たちを救われ、そして救われた目的にふさわしく私たちが歩めるように「良い行い」をも予め用意してくださった、と語っています。つまり、私たちの全生涯は神の恵みによって最高のものとして予め定められているから、私たちがなすべきことは、日々、神の私たちに対する御心を尋ね求め、そのご計画を悟り、そしてそれを実行することだ、ということになります。御心を知るための祈り、忍耐、試行錯誤、そして一見失敗と思えることさえも、神の御手の中ではすべてがご計画に従い、最高の「良い行い」に結果することになるのです。
何という堅固でゆるぎない生き方を神様は私たちに与えてくださったことでしょう!
・②について
そのような生き方は、かつて私たちが「異邦人」(イスラエルにとってはエイリアン[他国人])として生きていた時には、考えられないものでした。つまり、そのように人生を堅固に保障してくれるような契約(アブラハム契約・モーセ契約・ダビデ契約・・・)、契約の名宛人としての資格(イスラエルの国民)、そして契約を完成してくださるキリスト(メシア)など、一つも持たない、まるで根なし草のような、不安定な人生を、私たちは生きるしかありませんでした。しかし、神は、今や、イスラエルの国から私たちを「疎外」(エイリアネイテッド)していたすべてのものを、キリストの十字架によって、取り去ってくださいました。
・③について
私たちをイスラエルの国から疎外していたもの―それはイスラエルの民に対して神が与えられた「選びの印」―割礼、安息日、例祭、清浄規定などといった「ドグマ律法」(「さまざまの規定から成り立っている戒めの律法」)でした。それは、「それを持たない民は、すべて神の約束の対象外である」と宣告するものであり、それがある限り、異邦人に望みはありませんでした(敵意)。しかし!それが、何とキリストの十字架によって廃棄された、というのです。「我々だけがアブラハムの子孫だ」というイスラエル人の外的な誇りは、十字架によって葬り去られたというのです。それはイスラエル人にとっては、想像するだに「耐え難い痛み」でした。それでもイエス様は、ご自身が完全にイスラエルを代表して-イスラエルの歴史も誇りもすべて背負って-十字架の上で、その耐え難い痛みを担ってくださったのです。
・④について
それは、私たち異邦人が「聖徒たちと同じ国民」となるため、つまりパウロやペテロやヨハネらと同じ「イスラエルの民」、「アブラハムの子孫」という資格を異邦人にも与えるためでした。私たちは、もはや「異邦人」ではなく、キリストによって直接イスラエルの国に連なる「市民権(citizenship)」を付与されたのであり、それによってイスラエルに与えられた全ての約束と祝福を完全に受けるものとなったのです。
・黙想
このように驚くべき恵みを開いてくださるために、キリストが選んでくださった十字架の道を思い、心から感謝しましょう。また、そのためにイスラエル人に要求される代価の重さも覚えます。人類の長子であるイスラエル人はいわば全ての弟たちのために、霊的死(唯一の神の民としてのアイデンティティの死)を経なければならないのです。でもそれは、実はイスラエルが真のアイデンティティに生きるための死でもあります。イェシュアの十字架と復活に与ることによって、イスラエル人は真の意味で「あなたによって全ての民は祝福される」というアブラハムの召命を成就されるのです。その意味で、メシアニック・ジューである兄姉―その存在は神の選び-にも本当に感謝したいと思います。そして、私たちも、私たちの文化の中にある様々な民族的プライド-それは私たちの存在意義の根幹に触れるかもしれませんが-を主の十字架と共に葬り去り、そして主と共に復活し、真に主が用意しておられるユニークな私たちの民族的使命を受け取ろうではありませんか!
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