ティクーン・ディボーション No.18
- tikkunjppartner
- 2021年6月21日
- 読了時間: 5分
更新日:2021年7月2日
2021年6月14日
〇Ⅰコリント9:21 律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
〇ガラテヤ6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

https://www.travel-zentech.jp/world/map/greece/Ancient_Corinth.htm(引用元)
1 「キリストの律法とは何ですか」と問われることがあります。それはどういう意味なのでしょうか。
直訳すれば、それは「メシアの律法(トーラー)」となります。そこで、この意味を理解しようとするとき、まず考えなければならないのは、それはパウロによる完全な造語なのだろうか-言い換えれば、旧約聖書やイスラエルの伝統にルーツをもたない、完全に新しい言葉だったのか―ということです。結論からいうと、この「メシアのトーラー」というのは、決してパウロの造語あるいはまったく新奇な概念などではなく、むしろ数百年にわたってイスラエルの預言者や律法学者たちによって育まれてきた考え方であり、メシアの到来によってもたらされる新しい希望について語られたものなのです。今日は、少しそのことを見てみましょう。
2 中世スペインの医師でもあった著名なラビ・マイモ二デスは、「今、我々が持っているトーラーはモーセに与えられたのであり、このトーラーは、創造者、誉むべきお方が『別のトーラー』を与えるまで変わることはない」とし、さらにその「別のトーラー」については、「油注がれたメシア王が王座に座り、ご自身において父祖たちに与えられたトーラーに加えて、新しいトーラーの書を書かれるだろう」、「彼はその戒めを民に守らせるであろう」と述べています。また、ラビ文献には、「メシアだけがトーラー解釈の新しい原則を与える権利を有する」「聖なる神、誉むべきお方はエデンの園に座り、イスラエルのために、将来メシアによって彼らに与えられる新しいトーラーを取り出された」と記すものがあり、タルムードでは、「戒めはメシアが統治する将来には廃棄されるだろう」と述べるものがあります。さらにラビ・シメオン・ベン・エレアザル(紀元170-200年)は、「このようにしてメシアの時代が到来し、そのときもはや『~せよ』や『~するな』という戒めはなくなる」と教えています。以上を要するに、「トーラーと戒めはメシアの時代にはその意義を失うことになる」というわけです。
3 伝統的なユダヤ文献の中には、メシアの時代にはトーラーの「核心的メッセージ」を強調するメシア時代にふさわしい解釈が与えられるであろうという希望が述べられています。すなわち、トーラーの全体が無効とされ、廃止されるのではなく、メシアが与える解釈によって新しく更新されるというのです。例えば、次のような記述があります。
「モーセには613の戒め(Taryag ha Torah )が与えられた。そのうち、一年の日数に従った数字、365の戒めは禁止命令(「~するな」)であり、一人の人間の骨の数に従った248の戒めは作為命令(「~せよ」)である。……ダビデが来て、それを11にした。……イザヤが来て、それを6にした。ミカが来て、これを3にした。……その後、イザヤがまた来て、これを2にした。……ついにはハバククが来てこれを1にまとめた。それは次のように書いてあるからである。『義人は信仰によって生きる』(ハバクク2・4)。」
この有名なタルムードの一節は、時代が進展し、神とイスラエルの関係が深化するに及んで、トーラーの核心的メッセージが預言者らによって徐々に啓示されていき、ついに「信仰によって生きる」ということに結晶化されたのだ、というように読めます。すなわち、トーラーの本質は「信仰」によって結晶化したゆえに、信仰によって神と共に生きる者はトーラーの要求をすべて全うすることになるわけです。
4 ラビ文献には、一貫して、来るべきメシアは「立法者(law-giver)である」という思想が見られますが、その根拠は、創世記49章10節にあります。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」ここで、「シロ」とはメシアの称号であると解されており、ユダ族から起こされるメシアは「統治者」であるということですが、それは「立法制定者」という意味を持ちます。そして、ラビ・ハニンは、次のように語ったとされます。「メシア王はイスラエルを離散から回復し、彼らに30の戒めを与えるだろう。」そして、この点について、伝統的なトーラー注釈書は「メシア王は、彼らに、トーラーと、今日に至るまで彼らがトーラーに違反してきたその過ちを明らかに示されるだろう。……30の戒めは、世界のすべての民族が守るようになる規律を意味する。」と解釈しています。つまり、立法者であるメシアは、新しいメシアのトーラーをイスラエルにもたらすだけではなく、それは世界のすべての民族に適用される普遍的な要素を持つものであることを示唆しているのです。
5 いかがでしょうか。これらはほんの一例にすぎませんが、パウロが「メシアのトーラー」と語った時、それは同時代のユダヤ人-殊に学問をおさめたユダヤ人-には非常に良く理解できるような概念だったのです。むしろそのようなものとしてのトーラー理解に、彼らは完全に合意することができました。では、パウロの何があんなにも激しくユダヤ人を激怒させたのでしょうか-答えは、「ナザレのイエスはメシアである」というパウロの宣言にありました。つまり「メシアは既に来られた、だからこのお方は、モーセの律法を完全に更新し、新しいメシアの律法を与えられたのだ。」というパウロのメッセージこそが、ユダヤ人に拒絶反応を引き起こしたのです。彼らは知識としてはメシアがもたらす全く新しい時代というものを知っていながら、肉においてはあくまで慣れ親しんだ伝統(それは膨大な蓄積であり、ユダヤ民族の誇りでもありました)に執着するあまり、イエス=メシアを拒絶してしまったのです。しかし、今、時が到来しつつあります。ユダヤ人の霊の目が開かれ、イエスがメシアであることを多くのユダヤ人が知るに至る、その時が。そのために、ますます我々諸国のクリスチャンは忍耐強く祈ろうではありませんか。
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