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ティクーン・ディボーション No. 17

  • tikkunjppartner
  • 2021年6月8日
  • 読了時間: 7分

更新日:2021年7月2日

2021年6月7日

使徒の働き17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。・・・22 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。・・・



ペルガモン(トルコ)のギリシャ系遺跡(高橋撮影)

1 初期キリスト教は、主としてパウロ書簡において、神学的な体系化が図られていきますが、それは、最初から体系化を目指した学問的営為などではなく、むしろキリストを証し、キリストの教会を建て上げていく中で、異なる思潮や異なる霊的な運動からの挑戦を受け、必要に迫られて形成されていったものです。パウロの時代、主要な対決相手の一つはユダヤ主義的な異端であり、もう一つの大きな相手はヘレニズム的異端でした。今日は、主として後者について見てまいります。


ヘレニズム世界からの大きな挑戦の一つは、グノーシス主義と呼ばれた運動からのものでした。グノーシスとは「知識」を現わすギリシャ語ですが、既に第一テモテ書6章20節において「まちがって『霊知』と呼ばれる反対論」として指摘されています。グノーシス主義の信仰とは、最近の研究では、元来、ヘレニズムと古代オリエントのシンクレティズムとして生まれた宗教思想に由来するものであることが明らかにされています(その流れに属するものとしてはマニ教が挙げられます)。そして、グノーシス的信仰を基礎としてキリスト教神学に異端をもたらしたものの代表格がマルキオンによる運動でした。彼は、旧約聖書に啓示された神とその神に創造された現実の世界(宇宙)を劣った、あるいは誤りと欠陥に満ちたものとして完全に否定し、イエス・キリストこそが真の神であり、新約聖書(彼らが旧約的もしくはユダヤ的なものによって汚染されていると考えた書は除く)こそが真の神による真理の啓示だと主張しました。


2 ヘレニズム思想からのより直接的な挑戦としては、新(中期)プラトン主義、そしてストア派哲学からのものが重要でしょう。彼等の攻撃は、主としてキリストに向けられました。なぜ聖であり完全である神が、不完全で不十分な人間になるなどということがあり得るのか、父なる神と御子なる神が共に一人の神であるなどということがあり得るのか、というのが彼等にとっての最大の躓きでありました(それゆえに古典的な神学とそこから生み出された信仰信条のテーマは、圧倒的にキリスト論に集中しています)。


この点について少し敷衍しておきますと、従来、受肉論的キリスト論はヘレニズム的だと言われることが多かったのです。しかし、「多くの証拠によれば、ほとんどのヘレニストたちは、『神性(御子)の受肉』という概念にこそ嫌悪感と侮蔑を示したのであり、人となった神の御子が十字架の上で最大の恥辱と苦しみを受けたと聞いた時、彼らはそれを、神を冒涜するものであると感じた」のです(O.Skarusaune ,‘In the Shadow of the Temple’(2002) 323頁)。例えば、プラトン主義哲学者であったケルソスは、次のように述べました。「神は、善であり、美しく、幸福であり、最も美しい状態にある。もし神が人となるのだとすれば、神は、自らを、善から悪へ、美から恥辱へ、幸福から不幸へ、そして最善から最悪へと変えなければならない。誰がこのような変化を選ぶというのだろう。このように変化するのは滅びるべき性質の存在のみであり、不滅の存在に変化はあり得ない。したがって、神がそのような変化を遂げることは不可能である。……キリスト者が言うように、神が滅びるべき身体に変わるということは、既に述べた通り、不可能である。もし不滅の神が、キリスト者をして、そのように自ら身体をまとったかのように信じさせたのであれば、それは彼らを欺いたのであり、神は嘘をついたのだ。……親愛なるユダヤ人及びキリスト者諸君、神も、神の子も、人にはならなかったし、天から下ることを望むこともないであろう。」(Skarusaune前掲書324頁より引用)。


これらの挑戦に論駁すべく、教父と呼ばれた教会指導者らは、やはりヘレニズム世界になじんだ概念や思想、そして議論の論法を駆使しました。それが可能であったのは、彼らもまた反対者らと同じ思想的伝統や教育を共有し、ギリシャ哲学にも深い造詣を持っていたからです。さらに、教父たちは、そうすることで、キリスト教を、ヘレニズム世界の住人が十分理解できる、受容可能なものとして彼らに提示することを意欲したのであり、それは宣教的な意図から出た「文脈化」の戦略でもあったのです。しかし、そのような神学的営為によって形成されたキリスト教は、ある面で本来ユダヤ人世界の中で育まれ、神との契約関係という特別な基礎の上に築かれてきた宗教性とは相当隔たりを有するものとなったとも言えます。そして、それは、今や「ヘレニズム化されたキリスト教」と呼ぶべきものになり、本来のルーツであるヘブライズムを失ってしまったという主張に繋がるのです。


3 私は、今日のキリスト教神学の営みの多くがヘレニズムに毒されてしまったものとは思いませんし、ヘレニズムの影響とされる部分についても直ちに排除されるべきものとも考えておりません。いわゆる「ヘブライズム(ユダヤ)原理主義」に立つものではありません。また、キリスト教神学のどの教説がヘブル的で、どれがヘレニズム的かということを仕分けることにもあまり意味があるわけではないと考えています。イエス様だって、パウロだって、1世紀当時のユダヤ社会の複雑かつ多様な広がりの中で、ヘレニズムと全く無縁だったわけでもありません。私たちが本当に留意して、識別力を働かせなければならないのは、そこにどのような霊が流れているか、です。聖書に啓示された神への信仰から出ていなもの-究極的には「神なき人間中心主義」-これこそが私たちが忌避すべきヘレニズム的霊性なのです。


全き義と完全な愛に満ちた人格的な霊である神-アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イエス・キリストの父なる神-歴史を通して現実に働かれ、遂にはサタンとその同調者を滅ぼして、完全な御心を表される神-イエス・キリストを信じる全ての者に来るべき完全な新しい天と新しい地、そして新しいエルサレム(御国)を受け継がせてくださるお方-そしてご自分の契約と御言葉(聖書)にどこまでも忠実であり、必ずご自身の約束を全うされる神。ある行為や言明が、このような聖書が啓示する神から流れているのかどうかを霊的に吟味することこそが重要なのであり、この神から流れてくるものこそが真にヘブル的な信仰であると思うのです。

 
 
 

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