ティクーン・ディボーション No.15
- tikkunjppartner
- 2021年6月1日
- 読了時間: 6分
更新日:2021年7月2日
2021年5月24日
"私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"ローマ人への手紙 10章2~10節

イスラエルの野原に咲くシクラメン 写真提供:ネティブヤのハナ・コヴナーさん
1 今日は、パウロ書簡の中でもやや意味の取りにくい個所の一つであるローマ10:4~8を扱ってみたいと思います。 まず初めに私訳を試みてみたいと思います。
「律法はキリスト(メシア)を目標としており、だれでもこのお方を信じることによって義とされるのです。モーセは、律法による義については、『人がそれらを行うなら、それらによって生きる』(レビ18:5)と述べています。そして(同じ律法の書が)、信仰による義について、こう述べているのです。『あなたは心の中で、だれが私たちのために天に昇って(律法の言葉を取って聞かせて、行わせて)くれるのか(申命記30:12)、と言わなくてもよい。』なぜならキリストが天から下ってきてくださったからです。また、『だれが私たちのために海のかなた(深み)に渡って(律法の言葉を取って聞かせて、行わせて)くれるのか、と言わなくてもよい。』(申命記30:13)なぜならキリストが死者の中(よみの深み)からよみがえってくださったからです。では、何と言っていますか。『みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあ(ってあなたはこれを行うことができ)る。』(申命記30:14)。これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。」
2 どうでしょう。こういうと、随分、分かりやすくなってくるのではないでしょうか。
まず聖書のこの部分の翻訳が難解である理由の一つは、パウロのギリシャ語にあります。ここで、パウロは、申命記30章の個所を下敷きに語ろうとしているのですが、随分と簡潔に要約したり、端折ったりしていますね。そのため、申命記30章の該当箇所の本来のニュアンスが伝わらず、パウロの論理が追えなくなっているように思います。しかし、申命記30章の御言葉の意味ははっきりしています。
律法のことばはこれを行う者にいのちと祝福を約束するものです(申命記30:2~10)。それゆえローマ書10:5は、「モーセは、律法による義については、『人がそれらを行うなら、それらによって生きる』(レビ18:5)」と言っているのです。ちなみにレビ18章5節はイエス様も引用して、「そうすればいのちを得ます。」と語っておられます(ルカ10:28)。
そして、申命記30章は、律法を行い、神の御心をまっとうすることは困難なことだろうかと問い、<そうではない、人は(イスラエル)は、律法のことばを行うことができる>と結論付けます。もっとも、それは無条件で起こることではありません。申命記30章は、終わりの時代のイスラエルの霊的救済の完成を預言するものであることに留意してください。申命記30:12-13節は、本来、はるか遠くにあり、到底、人には行うことができないように見える律法のことばを「だれかが」取ってきて、私たちに聞かせて、そして実行させてくださることを暗示しています。そして、それは、ちょうど終わりの時代に起こるイスラエルの霊的覚醒と深くかかわっている出来事であることが分かります-そうです。キリストこそが、その「だれか」なのです。それゆえ、パウロは、申命記のレトリックに対応する形で、「キリストを引き降ろすこと」、「キリストを死者の中から引き上げること」と簡潔に表現しているのですが、その意味は「キリストこそが、いのちのことば/生ける律法となって、人となって天から下り、死して葬られ、よみがえり、天に昇られたから、今や申命記30:12-13節の預言が成就したのだ、ということです。もっと言えば、キリストが天に昇られ、そして信じるすべての者に聖霊を注がれたので、(かつキリスト=生ける律法=聖霊だから、)聖霊の内住を受けた者は、「いのちのみことば/生ける律法」が心に書き記さている、それゆえ「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあってあなたはこれを行うことができる。」(申命記30:14)ということができるのです。これはまたエレミヤ31:33の預言とも対応するものであります。
3 もう一つローマ書のこの箇所を分かりにくくさせているのは、翻訳者が持っているであろう神学的偏見です。それは、律法による義を、信仰による義あるいはキリストを信じる義と対立的に理解しようとしている点です。新改訳2017の訳をもう一度見てみましょう。
「モーセは、律法による義について、『律法の掟を行う人は、その掟によって生きる』と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。・・・」ここで、「しかし」と逆説でつないでいる点は、明らかに翻訳者の意図です。もちろん、間違いではありません。ただ、ここでのギリシャ語の接続詞は、必ずしも逆説だけを意味するのではなく、「そして」と順接でつないでもよいところです(英語のhoweverと似ています)。そして、その意味内容をみると、律法による義が信仰による義と対立するものではないことは容易に分かります。そうでないと、イエス様自身の言明もまた間違っていることになってしまいます。
律法による義はそれ自体で絶対的な神の聖なる基準を表します(神の義)。そして、神の義は、キリストにある信仰によってアプローチすることで全うされます(信仰による義)。これと対立するのは、「神の義を知らず、自らの義を立てようとすること」(ローマ10:3)であり、いわゆる行為義認です。逆説的なことですが、「律法を知っている、行っている」と誇る人は、本当に神が律法によって人間に意図しているところ-そのはるかに深い高み-を全く理解していません。「あなたの隣人をあなたのように愛せよ」(レビ19:18)という律法が真に意図しているところは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈る」(マタイ5:43)ことです。あるいは、それは、「誰が、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」(ルカ10:36)というイエス様の問いかけに応じることです。それは、生身の罪人が全うすることなどおよそ期待し得ない、はるかに高くて、聖い次元にあります。その前では、私たちは、取税人のように、ただひれ伏して、胸をたたいて、「神様、罪びとの私をあわれんでください。」(ルカ18:13)というしかできません。しかし、その途方もない距離を埋めて、私たちを律法の義=神の義に至らせてくださるのが、イエス=キリストであり、また聖霊なのです。つまり、キリストにある信仰による義は、律法による神の義に至らせ、これを全うするための唯一の道であり、また祝福された道なのです。
キリストにある私たちを責め立てることのできるものは、今や何もありません(ローマ8:31-39)。私たちにあるのは、キリストにより、また御霊にあって、日々、キリストのごとく変えられ、栄光から栄光へと歩んでいく-その長く、時には厳しい、しかし恵みに満ちた-歩みなのです。ハレルヤ!
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